演奏のヒント

§ 「移動ド」唱法の勧め

 合唱練習の譜読みにおいて、最近合唱指導者の渡部先生が楽譜の読み方で「移動ド」唱法を勧められています。「移動ド」とは「固定ド」とどのような違いがあるのでしょうか。下図にその楽譜の読み方を示します。

 「固定ド」とはハ長調の階名で全て読んでいく方法で、ピアノなどの鍵盤楽器でキーと楽譜を1対1に対応させる時に便利な方法です。一方「移動ド」とは調性に応じてその主音を「ド」として読んでいく方法です。調性によって五線譜上の同じ音でも階名が異なることになり、転調の多い曲では大変なことになります。しかし、合唱のように和声に重点を置くとき便利な方法です。
 長調では「ド」を主音(トニック)と言い、楽曲の終止音に使われます。これに対して「ソ」は属音(ドミナント)と言い、楽曲の調性を規定する最も重要な音です。長調のメロディーは属音の周りで躍動し、主音に落ち着くのが一般的です。終止音の主音の前は「シ」が使われ、これを導音と言います。小学校で礼をする時、「ソシレ」の属和音の後、「ドミソ」の主和音が鳴って完了すると落ち着きますね。
 中世に作られたグレゴリオ聖歌によって、教会旋法という1オクターブに7つの音階を組み入れる方法が定型化されましたが、主音から5番目の音が「テノール(主要音)」と呼ばれ、聖歌が朗読風に歌われた場合、非常に長くこの音に留まる様式が作られました。「テノール」とはラテン語で「保持する」を意味する「テネレtenere」に由来します。
 この他に、「ファ」を下属音(サブドミナント)と言い、三和音では第3音も重要な音になります。このように「移動ド」ではどの調においても、音階構成音の各々の性格がはっきり理解出来、非常に音楽的な読み方と言えます。
 さらに、和声と音律に理解を進めると、アカペラの合唱では「移動ド」なくして譜読みは出来ません。
 ヴァイオリンの弦を引いた時や人の声は「ド」という音を出しても、「ド」に対して整数倍の周波数の音も同時に出ています。この整数倍の周波数の音を自然倍音と言います。2倍の周波数の音はオクターブ上の「ド」の音程、3倍は「ソ」の音程、4倍は2オクターブ上の「ド」、5倍は「ミ」、6倍は「ソ」などです。基音の「ド」に対して自然倍音の音は音量が小さい為、人間の耳で聞分けることが出来ないだけです。また、基音だけの音は「ピー」という機械音に似た音ですが、自然倍音成分を多く含んだ音は心地よい楽音になります。
 この自然倍音で鳴る「ミ」や「ソ」の音程は、現代のピアノの調律に使われている12音平均律と異なり、「純正調」の音律となっています。純正な2音、例えば「ド」と「ミ」は4:5の周波数比、「ド」と「ソ」は2:3の周波数比、そして「ド」「ミ」「ソ」の長三和音は4:5:6の周波数比で非常に良く協和します。しかし、基音「ド」を同じ周波数に合わせた時の12音平均律のピアノの「ミ」と「ソ」の周波数は純正律とは異なっています。もちろん鍵盤の「ド」を叩くと、この「ド」に対する自然倍音も同時に出ていますから、鍵盤を2音同時に叩くと各々の自然倍音の音程のずれから唸りを発声させます。この為、12音平均律ではハーモニーに濁りが生じます。
 合唱では、他のパートをよく聞いて綺麗なハーモニーにしましょうと指導されますが、4声が例えば「ドドソミ」と発声した時に、その音程が純正であれば良く協和する為、人は自然に純正に近づけようと歌います。
 12音平均律の全音は半音の2倍の周波数比の差で、オクターブは12の半音で均等に割り振られるよう調律されますが、純正律は12音が均等な周波数比の差ではなく、全音階的半音は全音の半分よりも若干広い周波数比の差です。完全5度は12音平均律のそれより僅か(人間の耳には認識できない程度)に広く、長3度は12音平均律より狭く、短3度は広い周波数比の差となっています。
 この為、合唱では12音平均律に比し、長3度の第3音は低く取ると長三和音が綺麗にハーモニーします。短3度の第3音は高く取ると協和します。また主音の前の導音は低く取ると、終止音が良く収まります。このようにハーモニーを純正に鳴らすには、「移動ド」唱法が適しています。
 しかし、純正律は純正な3度と5度の音程を1オクターブの7音に無理やり押し込んだ音律である為、全音には大全音と小全音の2種類が生じ、転調という概念がなく、楽曲の演奏には向きません。また完全5度の音程は大全音2つ+小全音1つ+全音階的半音で構成されますが、上述の無理やり押し込んだ結果として、「レ」→「ラ」の完全5度は大全音1つ+小全音2つ+全音階的半音の音程となり、純正な完全5度に比し狭くて協和的ではありません。この為、「レファラ」の短三和音は10:12:15の周波数比にはなっていないのです。
 フォーレの「レクイエム」のキリエの冒頭、弦楽器と木管楽器が「レ」の音を出し、ホルンが「ラ」の音を出してニ短調の主和音を奏でた後に、合唱が歌い始めます。この時「レファラ」と「固定ド」でイメージすると違和感を覚えるのはこの為です。「移動ド」でニ短調の主和音「ラドミ」とイメージすると、簡単に綺麗なハーモニーで歌い始めることが出来ます。
 この様に、「移動ド」唱法は横のメロディーよりも、縦のハーモニーを協和的にする為にお勧めです。
 作曲家で合唱指導者の松下耕氏はソルミゼーション(階名唱法)という言葉で「移動ド」唱法を推奨しています。また、楽器演奏では楽譜と楽器のキーを1対1に対応させる為、「固定ド」が一般的ですが、自然倍音をベースとする金管楽器では、キーの無いトロンボーンを始め、ブラスアンサンブルでよく調和させる為、「移動ド」が使われ始めているということです。
 尚、「音律」についてもっと詳しくお知りになりたいとお思いの方は、Coro maschile JAOのホームページ「音律とハーモニー」のページをご覧下さい。又「調性」について西洋音楽の原理からお知りになりたい方は同ホームページの「合唱の勧め」のページをご覧下さい。                                                              以上、小栗正裕 記